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>> 島の歴史

 
   
   
   

明治18年から幾度となく行われた島内調査では、 「岸壁に阻まれているものの、島内は平坦で肥沃な土壌に恵まれている。」 と報告されていたことから、大東島の開拓に大きな期待が寄せられ、数名の開拓出願者現れた。しかし島の自然環境の厳しさが開墾希望者の夢の前に立ちはだかり、上陸断念を繰り返していた。
こうした中、開拓に着手したのが八丈島出身の玉置半右衛門である

   
         
   

鳥島の開拓でアホウドリの羽毛採集事業を起こし、巨万の富を築いた玉置は後継事業として大東島の開拓に乗り出した。明治32年11月23日、玉置半右衛門所有の帆船「回洋丸」で八丈島を出航。季節風の時化に遭いながらも、一路大東島へ向かった。大東島沖合でも時化に遭い、幾度となく沖縄本島へ引き返し、難航に苦しみながらも、明治33年1月23日、ついに南大東島の上陸を果たした。北大東島への上陸はそれから3年後の明治36年、社員山田多恵吉他数名を派遣し、甘蔗(かんしょ)8株を植えつけた。

   
         
   

南大東島は甘蔗農業が主であったのに対し、北大東島では、燐鉱採掘が主に行われ、沖縄本島北部や伊是名村、宮古・八重山から、労働者が渡って来た。
明治41年に燐鉱採掘の計画を立て、明治43年に事業を開始したが、階段式の露天掘りだったため、技術者が不足し、事業を軌道に乗せることができず、中断を余儀なくされた。南大東島で製糖業を成功させていた玉置商会も、陰りが見え始め、大正5年、大東島の経営権は東洋製糖に移された。

   
         
   

燐鉱事業の失敗で甘蔗農業に切り替えていた北大東島であったが、大正7年、第一次世界大戦の真っ只中、燐鉱石の需要が高まってきたことに刺激を受け、東洋製糖は大正8年、北大東島の燐鉱事業を再開させた。
北大東島の燐鉱は、他の鉱石には見られない特徴を持っていた。それは、鉱石の成分が燐酸の他に、アルミナ鉄の含有量が多く、燐酸は肥料や火薬の元となる製燐の原料として、アルミナ鉄は、戦闘機の機体を作るアルミの原料として開発が進み、北大東島は燐鉱の島として活気を帯びていった。最盛期には、台湾などからの出稼ぎ者で島の人口がおよそ4千人余りに増え、年間22.000トン以上もの鉱石を搬出していた。

   
         
   

島では開拓以来、独裁色の濃いプランテーション的な経営が行われていた。陸海交通・郵便通信 そして病院や学校も会社経営で行われており、島での出入管理や貨幣でさえ、会社が作った「乗船許可証」」や「金券」が発行されていた。

昭和2年、東洋製糖は金融恐慌の衝撃を受け、大日本製糖と合併。
それまで牛を動力として行われていた作業も、昭和4年には石油発動機の圧搾機による、製糖に切り替わり、製糖能力も増加した。
昭和16年第2次世界大戦勃発。
沖縄本島のような地上戦は無かったものの、艦砲射撃により製糖工場が爆破されるなどの被害を受けた。
昭和20年、終戦。
戦後は肥料製造が急務となり、マッカーサー司令部の特別許可を得て、昭和21年2月には、燐鉱の積み出しが開始され、島に活気が戻って来た。